サイゴン路地裏物語

ベトナム・ホーチミン市の路地裏に住む日本人が見た素顔のベトナム人。

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「日越共同チームがベトナムに作った建築が、今年のグッドデザイン賞を受けたんですよ!」

日本に住む知人からこんな吉報を受け取ったのは10月下旬のことだった。対象となったのは「A WEEKEND HOUSE」という住宅で、受賞したのは滋賀県立大学・金子尚志研究室。金子教授以下、2人のベトナム人、2人の日本人、合計5人の日越混成チームによる努力の結晶である。

金子教授と共に、チーフアーキテクトとしてプロジェクトに参加したフイン・バン・カンさん(35)に話をお伺いした。

「このプロジェクトが始まったのは、私たちが熱帯における住宅の研究するためにベトナムを訪れた2018年末のことです。そのときにホーチミン市のMakeSpace.A建築事務所(MSA)と話をする機会がありました。金子先生は消費エネルギーの低減と快適性を、建築のデザインとともに統合するパッシブデザイン建築の専門家です。

『これを取り入れることは、ベトナム・日本の建築、双方にとって有意義なことになるに違いない』という点で、両者の意見が一致して、ベトナム南部・ビンズオン省の住宅を、協力して作ることになったのです」

ベトナムと日本、4000キロ離れた2つチームの共同作業が始まった。新型コロナウイルスの感染拡大もあり、両国間を自由に行き来することはできない。ベトナムの現場で撮影された写真を受け取り、日本側で詳細を確認し、解決策を提案するという形で作業は進められた。言葉も日本語、英語、ベトナム語の3か国語が飛び交う。

「でもいちばん大変だったのは、パッシブデザインの理論を、環境が大きく異なるベトナムの住宅にどのように適用するかでした」
 
住宅が完成したのは2020年6月のこと。ベトナムの山岳地帯では、結婚指輪の代わりにブレスレットを交換する習慣がある。これを取り入れブレスレットのようなリング状の外観を持つユニークな住宅が出来上がった。強烈な日差しを防ぐための可動式ルーバー、住宅のある斜面に流れる風を取り込み、高温多湿な気候を和らげるなど、パッシブデザインの工夫を、高度なコンピューターシミュレーションによって解析しながら、建築のデザインとして実現している。

カンさんが日本に来たのは、2014年10月のこと。日本政府からの奨学金を受け、滋賀県立大学の修士課程に入った。環境建築の博士号を取得した後、2020年からは金子研究室で研究員として働くとともに、ベトナムに設立したパッシブデザイン研究所で設計活動を行っている。

「日本は最先端の技術と豊かな伝統が融合している国です。建築の面では、日本の夏はベトナム南部の高温多湿気候に非常に似ているので、ベトナムに適用できる建築の手法を研究するのに適した国だと思います」

そんな思いを持って日本で研究を続けてきたカンさんにとって、今回のベトナムプロジェクトに参加でき、さらに高い評価を得たことに対する感慨はひとしおだっただろう。
「受賞の知らせを聞いて、金子先生と握手をした後、すぐにベトナムのパートナー、依頼主、そして家族に連絡をしました」

実は建築分野における日本とベトナムのつながりは深い。国際的に活動するベトナム人建築家であるヴォー・チョン・ギア氏は、東京大学大学院で建築を学んだ。ベトナムに移住して活躍している日本人建築家は、私が知っているだけで10人近くにのぼる。今回のプロジェクトは、そんな良好な関係に新たな1ページを加えたと言っていいだろう。

2021年10月に出入国在留管理庁が発表した統計によると、日本に住むベトナム人は45万0046人。国籍別に見ると、中国に次いで2番目の多さになる。私の出身地である大阪では、日常生活の中で1日に1人は必ずベトナム人を見かけると言って過言ではない。今やベトナム人は日本にとって「お客様」ではなく「社会の一員」なのだ。そんな日越の協力が、建築の分野に限らず多方面で進むことを願っている。

【写真キャプション】
建設現場でベトナム側スタッフと共に(写真:フイン・バン・カンさん提供)

(初出:時事速報ベトナム版2021年12月28日/改稿:2022年03月14日)
  



在日ベトナム人のワクチン接種


「ワクチンを打ちたいとは思っていましたが、なかなか機会がなくて…。焦ってはいませんでしたが、不安はありました」。
こう話すのは、ベトナム人留学生のグエン・ティー・チー(21歳)さん。大阪にある専門学校に通っている。

外国人でも日本に住民票があれば、新型コロナウイルスの予防ワクチンを打てることは、彼女ももちろん知っている。接種券も送られてきた。彼女の日本語は、日本に来てから2年半というのが信じられないほど上手で、日常会話には不自由しない。そんな彼女でも、「日本語で発信されるワクチン接種に関するさまざまな情報をきちんと理解するのは難しかった」という。

チーさんだけではない。昨年、コロナ禍の続く大阪に帰国した私は、日本に住むベトナム人の知人から同じような話をよく聞いた。私の手元にも、日本に帰国してからほどなくワクチン接種券が届いたが、手続きが面倒だなと感じたのは事実だ。外国人であればなおさらだろう。

チーさんの通う学校では、1000人の留学生のうち8月時点でワクチンを接種した人はわずか150人だったそうだ。「この状況をなんとか改善できないか」。そう考えた学校側は、在留外国人向けのプラットフォームメディアを運営し、かれらの生活を支援するYOLO JAPANに相談した。

大阪市浪速区にある同社は、社内のイベントスペースを利用した職域接種を計画した。外国人を主な対象に想定し、17カ国語の予診票を用意した。1回目が9月12日、2回目は10月9日と決め、チーさんの通う学校の留学生600人に接種を行うことにした。チーさんを含め、大部分がベトナム人だった。2回目の接種を終えたばかりの彼女は、「ワクチンを接種できてホッとしました」と晴れやかな笑顔で話した。

日本の行政も、在留外国人がワクチンを接種できるように努力はしている。厚生労働省のウェブサイトでは、多言語で予診票を用意するなど、態勢づくりは進めているが、外国人にはうまく伝わっていないようだ。

YOLO JAPANの代表を務める加地太祐さんは「行政はメディアじゃないですからね。日本に住んでいる外国人にはそもそも厚労省のウェブサイトを見ようという考えが浮かばない」と分析する。「20万人を超える日本在住の外国人が弊社のサイトに登録しており、彼らに直接的に情報を伝えることができます。イベント、コンサート、セミナーや商談が可能な多目的スペースも持っており、『ここは一肌脱ごう』と考えました」と語る。

接種に当たる医師もワクチンも自ら手配し、会場の案内役もすべて社員が休日出勤で対応した。苦労はあったが、「やって良かった」という。

約20年ぶりに日本に長期滞在する私が驚くのは、ベトナム人が増えたことだ。買い物で立ち寄るコンビニエンスストアや移動の電車などで、ベトナム人を見掛けない日はない。2020年は新型コロナで往来が難しくなったにもかかわらず、日本に住むベトナム人は増えている。その数は50万人近くに上る。ベトナムに住む日本人の約20倍もいる。

ベトナム社会が日本人を暖かく迎えてくれたように、日本社会もベトナム人を暖かく受け入れたいものだと思う。そうなれば、ベトナムと日本が互いに幸せになるだろうから…。

【写真キャプション】
ワクチン接種を受けるチーさん

(初出:時事速報ベトナム版2021年11月29日/改稿:2022年01月24日)
  




日本の教会に集うベトナム人

「日本に留学に来るとき、いちばん不安だったのは、もしかしたら『教会があるかどうか』だったかもしれません」
そう言って笑うのは大阪市内の専門学校に通うベトナム人留学生のホアさん、21歳。来日して2年とは思えないほど上手な日本語を話す。

彼女の両親は1954年、ベトナムが南北に分断されたときに、共産主義政府を嫌って北部から南部に移住したカトリック信者だ。ホアさん一家が住むドンナイ省の村の住民は、ほとんどが北部から移住したカトリック信者ばかり。ホアさん自身、物心ついたときから、毎週日曜日の教会通いを欠かしたことはない。

「ベトナム国内はどの町でも教会があるから安心ですが、タイやカンボジアなどの仏教国に旅行をするのは大変です」
アンコールワットを見に行きたいと思っていたが、シェムリアップにカトリック教会があることが確認できなかったため、諦めたそうだ。

そんなホアさんだから、日本への留学を考え始めた際にも、真っ先に日本のカトリック情勢を調べてみた。
「日本のカトリック信者数は約40万人で、人口比で0.3%程度だと知って驚きました。ベトナムでは7〜8%だと聞いていますから」

調べてみると、大阪府下には複数のカトリック教会がある。中でも大阪市内の玉造教会では、毎週日曜日には、ベトナム語のミサが行われていることを知り、安心して留学を決めた。来日以来、日曜日には同教会に通っている。

日本で緊急事態宣言が実施されている間は、自宅でベトナムの教会が配信するオンラインミサに参加していたが、ミサが再開されると同時に教会通いに戻した。毎週のミサには数百人のベトナム人が参加するので、思い切り母国語で話ができる貴重な機会でもある。これも楽しみだ。

ホアさんに限らず、ベトナムのカトリック信者はかなり信仰熱心で、かつ厳格であるように見える。まず異教徒との結婚はかなり難しい。「好きな人ができても、相手が仏教徒だと恋愛関係になることを諦める」という話を聞いた。ホアさんの生まれ育った村では、強引に異教徒と結婚すると、本人だけでなく、その家族や親戚まで村八分にされたという。生まれた子供は必ずカトリック信者として育てる。だからだろうか、カトリック信者同士の共同体意識は強いようだ。

「留学や就労で来日するベトナム人が増えて、この教会のカトリック共同体も様変わりしました」
そう語ってくれたのは長年玉造教会に通っているベトナム人男性。彼は1980年代にボートピープルとして日本にやってきた。2000年代初めまでは、この教会に集うベトナム人は、彼と同じような背景を持つ人ばかりで、人数も2〜30人だけ。ミサも毎週は開かれていなかった。

「今はこの教会に登録しているベトナム人は500人を超えています。その中心は留学生と技能実習生で、すっかり若返りました」
確かに教会に集まっている人たちを見ると20代の若者ばかりだ。かつては玉造教会に来ているのは南部ベトナムの人ばかりだったが、今は北部や中部のアクセントで話す人も多い。いろんな地方のベトナム人が一堂に会しているのは、ベトナム人の世代交代を象徴している情景のように見えた。

【写真キャプション】
ベトナム語のミサが終わった直後の玉造教会

(初出:時事速報ベトナム版2021年11月09日/改稿:2022年01月17日)
  




アメリカから届いた結婚式の写真

ベトナム人の妻の親戚から結婚式の写真が届いた。結婚したのは妻の従姉の1人息子でチ君という。かつてはホーチミンの我が家と同じ路地の中に住んでおり頻繁に行き来があった。私もチ君のことは、20数年前、彼がまだ幼稚園の頃から知っている。

そんな一家が揃ってアメリカに移住したのは約10年前。3人ともに英語はほとんど話せない。「仕事はどうするのだろう」と他人事ながら心配だった。一家は住んでいた小さな家を売って渡米資金を作ったのだが、物価の高いアメリカのこと、お金がもつのは半年か、せいぜい1年くらいのものだろう。

一家が移り住んだのはロサンゼルス近郊にあるリトルサイゴン。アメリカ最大のベトナム人コミュニティだ。妻の親戚たちもたくさん住んでいる。チ君のご両親はすぐに仕事が見つかり、ベトナムにいたときとは比べ物にならないくらい豊かな生活ができるようになった。

私はロスに行ったときにチ君とも会っている。英語はネイティブと区別ができないほど上手で、学業にアルバイトにと、アメリカ生活を満喫している彼の姿はすっかりアジア系アメリカ人だ。将来のことを尋ねると「ベトナムに戻る気はない。アメリカは夢が実現する国だからね」。

華やかな披露宴の写真を見ながら、改めて「彼はこれからアメリカ人として行きていくのだな」という思いを強くした。

私は日本にも、20数年前から付き合いがあるベトナムの人たちがいる。いわゆるボートピープルとして日本に来た人たちだ。移住先の第一希望はアメリカだったらしいが、それはかなわず日本にやってきた。それでも「ベトナムに比べたら日本は天国」と自分たちの運命を喜んで受け入れ、日本語を学び、定職につき真面目に働いている。

生活は実に慎ましやかだ。住んでいる賃貸住宅は、おおむねベトナムで暮らしていた家よりも小さい。既に定年を迎えた人もいるが「貯金の切り崩しだけでは生活できない」と学生並みの安い時給で働き続け、休日出勤もいとわない。

チ君から送られてきた写真を見ながら、アメリカ在住ベトナム人と、日本在住ベトナム人との暮らしぶりの違いを考えてしまった。

私が知っているのは、アメリカではリトルサイゴンに住む10家族ほどのベトナム人に過ぎない。ベトナム戦争後に難民として渡米した人たちだ。日本在住ベトナム人の知り合いの数は遥かに多いが、それでも日本在住ベトナム人の全体像を語ることはできないだろう。

そんな限られた事例ではあるが、両者を比べると、アメリカに住んでいるベトナム人の知人たちのほうが、はるかに豊かな暮らしをしている。移民先がアメリカなのか、日本なのかの違いだけで、ここまで違ってしまうのだとしたら、私は日本人の一人として申し訳なく感じてしまう。

当事者である日本に住むベトナム人は、アメリカへの移住がかなわなかった不幸を恨んだりしないのだろうか。20数年の付き合いがある日本在住ベトナム人のマンさんに尋ねてみた。
「アメリカに移住したベトナム人のほうが豊かな暮らしをしている? 知っているよ、一緒に国を出た友達もいるからね。でも羨むことはないなあ」

彼はそう笑い飛ばした。私が「本音を聞かせて欲しい」と食い下がると、彼は一転、真剣な顔になり、
「いや、これは社交辞令じゃない。私は本当にここの暮らしがとても気に入っているんだ。日本が受け入れてくれたことに心から感謝をしている」

その言葉からは、彼の本心がにじみ出ているように感じられた。私は彼に「ありがとう」と頭を下げたが、あれは何に対する感謝の気持ちだったのだろう。ただ「ありがとう」という言葉を出さずにはいられない心情だったのだ。

【写真キャプション】
カトリック教会での婚姻のミサ。その後、場所を移して盛大な披露宴が行われた。

(初出:時事速報ベトナム版2021年10月11日/改稿:2022年01月10日)
  




少女の人生を変えた50ドル

この話の始まりは約25年前にさかのぼる。アメリカ人ビジネスマンのバルコさんは、ホーチミンに出張中だった。数か月に1回は来越して、10日間ほどの滞在中は、毎日現地の取り引き先を訪れる。

その時、会社の門の近くで物売りをしている少女の姿が目についた。6歳くらいだろうか。道路脇に立ってチューインガムやライターを売っている。

ある日、バルコさんは、タクシーの隣に座っている通訳のベトナム人・ロアンさんに声をかけた。
「あの子、いつもここに立って商売をしているよね。学校には行かないのだろうか」
「家が貧しいので、親が働かせているのでしょうね」
「彼女が学校に行けるようにお金を渡してやりたいのだが、いくらぐらい渡せば、いいだろう。1000ドルもあれば、あの境遇から抜け出せるのではないかと思うのだが」

ロアンさんはホーチミン市内の大学に通う大学生。出張時にはいつも手伝いを依頼しており、今や、ベトナムにおけるバルコさんの右腕のような存在だ。

「一度にまとまったお金を渡しても、それは一時しのぎにしかなりません。1000ドルは大金ですけど、あなたが次にベトナムに出張に来たときには、そのお金は使い果たしていて、彼女はまたあそこで物売りをしていると思いますよ」

ロアンさんは、こう提案してきた。
「それより少しずつでいいので、私に毎月送金してもらえませんか。お金は私が彼女の家に届けましょう。そのときには、学校に行っているかどうかも確認して、あなたにレポートを送ります」
里親・里子のような関係である。

彼女は続けた。
「毎月、あなたからのお金を受け取るようになれば、彼女は『自分のことを気にかけてくれている人がいる』という精神的な支えが得られます。彼女のような境遇の子供が勉学を続けるのに必要なのは、お金だけではなく気持ちなのですよ」

バルコさんは、アメリカに帰ってから、毎月50ドルをロアンさんの口座に送金した。それに対し、ロアンさんからは、毎月、マイの近況を報告する手紙が届いた。まだインターネットが使えない時代である。ロアンさんの几帳面な直筆の手紙に加えて、マイの近況を写した写真も、同封されていた。

一方のバルコさんも、毎月手紙を書き、自分の家族たちの写真、アメリカでの日常生活の写真などを同封して送った。バルコさんはホーチミンに出張に来ると、1日は休暇をとって、マイと買い物や遊園地に行ったりして、一緒の時間を過ごすようになった。ロアンさんが同行したことは言うまでもない。

その後、マイの話を聞いたバルコさんの友人たちから「私も里親になりたい」という申し出が相次いだ。最終的に10組以上の「里親・里子」が成立。「里子に会いたい」と休暇を利用してホーチミンシティを訪れる人も少なくない。

ロアンさんは就職をしてからも、数少ない休日を使って里子達との仲介役を続けた。すべて無償である。マイが結婚したときには、バルコさんはアメリカからやって来て、家族の一員として結婚式と披露宴に出席した。

支援していた子どもたちが、すべて幸せになったわけではない。ある女の子は高校に進学したものの、勉強に身が入らず中退。結局、売春婦になってしまった。しかしほとんど子どもたちは、学校を卒業して就職し、結婚をして幸せな家庭を築いている。

バルコさんとロアンさんの小さな一歩から始まった支援は今も継続中だ。民間企業の最低賃金が約1万5000円〜というこの国では、人を救うのにも大金は要らない。わずかのお金、そして何より大切なのはちょっとした気持ちだ。それがあれば、1人の人生に「奇跡」を起こすことができる。

【写真キャプション】
ホーチミン近郊でも、幹線道路から少し外れたところには、こんな風に経済発展から取り残された貧しい人たちの生活がある。

(初出:時事速報ベトナム版2021年08月25日/改稿:2022年01月03日)
  




家族一緒が一番幸せ

「1日24時間、家族一緒に過ごせる。これ以上の幸せはないのではないかい」。

満面の笑みを浮かべながらこう言い切るのは、ある日系企業で働くミンさん。彼の妻ガーさんも同じ会社で働いており、社員の注文に応じてインスタントラーメンやコーヒーなどを出す役回りだ。原価に若干の手間賃を上乗せして販売している。夫妻には娘が2人いて、彼女たちも相次いで同じ会社に就職した。朝は4人でそろって出社し、夕方になるとみなで退社する。

朝から晩まで家族4人でずっと行動を共にしている。妻からすれば、夫の浮気を監視できていいかもしれないが、ミンさんはちょっと息が詰まるのではないだろうか。2人きりになったときに、彼の心境を尋ねたところ、返ってきたのが冒頭の言葉だった。

「家族愛が強い」。これは、ベトナム人の気質の特徴とした必ず挙げられることと言っていい。そんな「家族第一主義」の人たちにとって、旧暦の正月を祝って家族が一堂に会するテトは大切な時間だ。

ホーチミン市にはメコンデルタから働きにきている人が多く、テトには大挙して里帰りする。ベトナムで会社を経営している人が困るのは、そのまま故郷に居残ってしまう社員がいることだ。最近は職場に戻る割合が高くなったようだが、以前は「60%しか戻ってこない」という話をよく耳にした。社員が戻らない大きな理由の1つは「家族」だろう。

「息子はホーチミン市の一流企業に職を得て、毎月多額の仕送りをしてくれる。でも本音を言うと、無職でもいいから親の身近に居てくれる方がうれしい」。メコンデルタの村に住む年配のベトナム人女性はこう話していた。里帰りした時にこう引き止められたら、子供も心が動くだろう。

娘のために実家の近くで職を探してきて、「ホーチミン市に戻らなくても、こっちにも仕事はあるぞ」と訴える父親や、週末に実家とビデオ電話をするたびに「子供と一緒に暮らせない人生なんて意味がない」と泣いて目を真っ赤にした母親の話を聞くのも1度や2度ではない。

「家族一緒」が重視されるのは、都市部でも同じだ。ホーチミン市に住む知人の家には、一流企業に勤める姉と就職しても長続きせずブラブラしている弟という対照的な2人の子供がいる。母親が溺愛するのは、圧倒的に弟だ。理由は「いつも家に居てくれるから」。姉は「一家の家計を支えているのは私なのに、母親が冷たいのは理不尽だ」と、ぼやいている。

もちろんすべてのベトナム人がこうではないだろう。知り合いのベトナム人夫妻は「親のことは愛しているけれど、相手の親はもちろん、自分の親とでも同居はしたくない」と断言していた。「子供には子供の生活がある」と割り切る親も増えているようだ。それでもなお「家族一緒が一番幸せ」というのが、ベトナムではまだ多数派ではないだろうか。テトを迎えるたびに、「家族を大切にするのはベトナムの良いところだ」という気持ちになる。

2020年、2021年は新型コロナウイルスの流行により、日本でもベトナムでも正月休みの家族の再会が思うようにいかなかった話を聞くことが多かった。こんなご時勢だが、今こそ、家族のありがたさを見直す良い機会なのかもしれない。

【写真キャプション】
テトを祝う横断幕が掲げられたホーチミン市の小さな路地。

(初出:時事速報ベトナム版2021年02月26日/改稿:2021年12月27日)
  




ベトナムと階級社会

「ベトナムは階級社会なんだよ。いや『だった』という方が正確かな」
アメリカに住むベトナム人男性と話をしていたとき、こんな言葉が飛び出してきて驚かされた。

「class societyですか?」と、彼が発した英語をオウム返しにして確認したところ、「その通り」と自信満々の答えが返ってきた。

「インドにおけるカーストのようなものですか?」と改めて確認すると、「ベトナムには、インドほど厳密ではないが、上流・中流・下流という3つの階層がある。人の能力には生まれ持っての差があるのだから、社会の中では、それぞれ身分相応な立ち位置で生きるべきなんだよ」と説明してくれた。

「例えばあなたの奥さんの家庭は中流以上だろう。だから奥さんに家事をやらせてはいけない。下流の人間がやるべきなんだ。知的能力が高い中流以上の人間は、もっと高度な仕事をした方が社会への貢献度は高くなる」と話した後、「しかし」と、言葉を継いだ。

「1975年以降、この階級社会が崩れてしまい、下流の人間が社会の中で上に立つ例が出てきてしまったのは、非常に嘆かわしい」とぼやいた。

彼自身はまだ40代で、階級社会だった時代を知らない。生まれ育ったのはロサンゼルス近郊で、ベトナム人が多く住む通称リトルサイゴン。自宅は広い一戸建てで庭にはプールもあるという。ベトナム戦争後、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による共産体制を嫌い、難民としてアメリカに移住した両親から、かつての南ベトナム(ベトナム共和国)の話を聞いて育ったそうだ。

「仕事はリモートで可能だし、家の中には監視カメラがあり、ベトナムにいる間もスマホで家の様子を確認できる。だから長期間、ベトナムに滞在していても安心なんだ」。
そう言って、画面に映るアメリカの家を見せてくれた。モノクロではあったが、部屋数の多さとそれぞれの部屋の広さを見ると、経済的にかなり成功していることがうかがえた。

彼と話をしながら、75年以前に大地主だったベトナム人の話を思い出していた。彼女の夫はダラット近郊に大規模な農園を営んでいて、「土地が広く、門から玄関まで距離があったので、車で移動するほどだった」という。

多くの使用人がいて「一切家事をしたことがなかった」というのが自慢だった。没落し、自分で食器を洗わなければならなくなったときには、「理不尽さに涙が出た」そうで、「チョイオーイ」と繰り返し、嘆いていた。ベトナム語の「チョイオーイ」は使う場面で、さまざまにニュアンスが異なるが、この時は「おお、神よ」みたいな意味合いだった。

アメリカの男性は福山雅治に面影が似た美男子。話し方は知的で、横柄な感じはまったくなかったが、話が進むにつれ、私の中で反発する気持ちが大きくなった。

私自身が大富豪の所有する農園で日々汗を流し、肉体労働する立場だったら、食器一つ洗ったことがない人の生活を見て理不尽に感じ、「変えたい」と思うに違いない。「あなたは下流の人間だから、一生、汚れ仕事だけをしていればいい」と決めつけられたら、なおさらだろう。

ベトナム戦争当時、南ベトナム側に、北ベトナムに呼応して南北統一のために戦った勢力があることはよく知られている。南ベトナム解放民族戦線、通称・ベトコンだ。これに参加した人たちがどんな思いを抱いていたのか、それを語るだけの情報は持ち合わせていない。しかし「階級社会」への反発を感じていた人もいたのではないか。彼の話を聞きながら、そんなことを思った。

【写真キャプション】
2015年、ベトナム戦争終結40周年を迎えたホーチミンシティのイリュミネーション。右側が現在のベトナム国旗で、左は南ベトナム解放民族戦線の旗。

(初出:時事速報ベトナム版2021年04月23日/改稿:2021年12月20日)
  




働きながらダブルスクール

今年25歳になるデザイナーのハーさんは勉強熱心だ。

出社前に英語学校に行き、退社後には専門学校でデザインソフトの使い方を学んでいる。彼女が働いているのは外資系企業で社内では英語が必要なのと、将来、親戚が移住したオーストラリアで働きたいからだという。デザインソフトは、もちろん自分のスキルアップのためだ。給料の4割近くが授業料に消えるという。

「両親と一緒に暮らしているから、それでも大丈夫なのよ。というか、学校に行きたいから、一人暮らしを諦めたとも言えるわね」
彼氏はいない。「恋愛は仕事で一人前になってから。そうしないと彼氏ができても結婚できないでしょ」という。

ベトナムの共働き率は高い。少し古い統計になるが、日本総研「2015年度アジア主要都市コンシューマインサイト比較調査」によると、ベトナム都市部の共働き率は98%を超えているという。

ハーさんは「稼ぎがない女の子は、嫁の貰い手がいないわ。素敵な結婚をするためにも、キャリアを磨かなきゃ」と笑う。

その真偽はともかくとして、私の周囲のベトナム人は男女を問わず、会社員をしながら学校に通う人が多い。夜間の大学で別の学位を取ろうとしている人、資格取得のための専門学校に通う人など、その内容は様々だが、目的が「知的好奇心」ではなく「キャリアアップ=昇給のため」という点は共通だ。

ベトナム人は仕事より家庭を大切にする。残業や休日出勤は基本的にご法度だ。一方で「少しでもいい暮らしをしたい」という強い上昇志向も持っている。ハーさんのように「働きながらダブルスクール」という人は増えていくのではないだろうか。

写真:路地裏のカフェでバンミー(ベトナム風バゲットサンド)とコーヒー。下町の典型的な朝食風景の一つだ。今はコロナのため、このような情景は見られなくなっているが。

(本稿初出:2021年10月11日)
  


【タイトル】

賭博で人生を棒に振る


「走れロム」というベトナム映画が7月に日本で公開された。「宝くじ賭博」をめぐる話である。紹介記事を読んでいると、アイン君(仮名)というベトナム人のことを思い出した。

彼は日系企業に勤務するすご腕営業マンだ。30歳代半ばで独身、背は低くて痩せており、どちらかと言うと「貧相」な印象だ。入社するまで営業経験がなかったにも関わらず、自分で戦略を考え、次々と新規の顧客を獲得するようになった。取引先の信頼は厚く、同僚らに愛された。社外からも注目され、同業の日系企業から引き抜きの誘いがあったほどだ。

そんなある日、得意先へ集金に行ったアイン君は「遅くなったので」と連絡し、直接帰宅した。翌朝、彼から「体調が悪いので休みます」と総務担当にメールが届いた。それを最後に連絡が取れなくなってしまった。メールはもちろん、電話にも応答がない。

疑われるのは集金したお金の持ち逃げだ。しかしお金は1000ドル程度で、人生を棒に振るほどの額ではない。報告を受けた社長のAさんは「あのアイン君に限って」と、信じられない思いだったという。

数日後、親族を通してアイン君と連絡が取れ、後見人のような立場のおじ夫婦に付き添われ、会社にやってきた。

彼が消えた日、ベトナムではサッカーの国際試合が行なわれていた。ベトナムではギャンブルを禁止しているが、陰では行なわれていて、サッカー賭博は人気が高いという。

集金後、アイン君が飲み屋の前に設置された大型テレビで試合に見入っていると、「一口乗らないか」と賭博の胴元から声を掛けられた。そこで集金したお金をすってしまった。

おじ夫婦によると、アイン君は以前にも賭博で問題を起こしたことがあったという。夫婦は、「今の仕事はとてもやりがいがあったそうで、これで真人間になったと、親族一同で喜んでいた。彼の更生のためにも、公安への報告を含めて厳罰をお願いします」と話し、深々と頭を下げた。

当のアイン君は涙を流しながら謝り、「僕はこの会社と仕事が本当に好きです。お金は働いて返します。解雇だけは勘弁してほしい」と訴えた。上司、同僚からも「辞めさせないで」という声が上がった。

ここまで反省しているのだから同じ過ちは繰り返さないだろう。お金は給料から天引きすれば、半年程度で返済可能だ。一方で、解雇して、同業他社に移ったら、担当した顧客もそちらにくら替えしかねない。

悩んだ末にAさんが出した結論は、「解雇はするが、使い込んだお金を返済するなら公安に被害届は出さない」というものだった。

退職後、アイン君は再就職に取り組んだが連戦連敗だった。「良くないことと分かっているが、同業他社の面接を受けることを許してほしい」との連絡がきた。Aさんは快諾したが、それも実らなかった。退職時の理由を「自己都合」としたが、同業他社の社長らは「何かあったに違いない」といぶかしがり、採用を控えたという。

それでも数カ月後には仕事が決まり、毎月の返済が始まった。退職してから、およそ1年後に全額を返済でき、Aさんのところにあいさつに訪れた。

「この日が来るのを心待ちにしていた」。こういってAさんがアイン君を抱きしめると、彼はうっすら涙を浮かべていたそうだ。

ここで終われば美談である。しかし、半年もたたないうちに、アイン君はまた賭博でお金をすった。給料だけでは穴を埋められず、胴元からの催促の電話が会社にもかかってくるようになった。退職せざるを得なくなり、アイン君の消息はようとして知れないままになってしまった。

【写真キャプション】
街角で見かける宝くじを売る店。

(初出:時事速報ベトナム版2021年07月27日/改稿:2021年10月04日)
  




気が利くホテルスタッフ

私は焦っていた。取材が予定より大幅に長引いたからだ。ホーチミン市からハノイへの出張最終日。夕方6時のフライトでホーチミン市に戻ることになっていた。この調子だと、取材が終わるのは午後4時頃だろう。通常であれば問題ない。ホテルはチェックアウトを済ませており、荷物も持っている。

しかし、困ったことが1つあった。タブレット端末が出張中に壊れ、なじみの店に修理に出していた。修理は正午には終わっており、取材の後にお店で受け取り、空港に向かうつもりだった。

取材先からお店までは約30分。そこから空港までは約1時間かかり、飛行機に乗り遅れる恐れがあった。

数週間後には、再びハノイ出張が入っている。ホテルに電話をし、「次の出張まで、私のタブレットを預かってもらえないでしょうか」とお願いした。

電話で応対してくれたのは、ベトナム人女性のフロントスタッフのフーンさん。2泊するうちに私の名前を覚え、いつも笑顔であいさつしてくれた。泊まっていたのは日系のビジネスホテルで、接客スタッフは全員、基本的に日本語を話す。フーンさんも、かなり日本語が上手だった。

「タブレットは今、お店にあるのですね。それはどうされますか?」
「お店に電話して、ホテルに届けてもらおうと思っています」
「了解しました。このまま少々お待ちください」

こんなやりとりの後、彼女がベトナム語で何かを話しているのが、かすかに聞こえた。ほどなくして、フーンさんからこう提案された。

「今、確認したところ、手の空いているスタッフが1人います。彼が今からお店に行ってお客様のタブレットを受け取り、取材先にお届けします。それでいかがでしょうか?」

一瞬、言葉に詰まった。とても助かるのは事実だが、そこまでお願いして良いものだろうか。逡巡(しゅんじゅん)したが、結局、フーンさんのありがたい申し出に甘えることにした。

次のハノイ出張時に、ホテルのフロントを訪れるとフーンさんがいた。前回のお礼を伝えた後、「1人の宿泊客のためにあそこまで手間をかけることを、よく上司が許してくれましたね」と聞いてみた。

「いいえ、上司には確認をとっていません。私の判断で手配しました」という返事がきて、驚かされた。フーンさんは大学を出たばかり。このホテルで働き始めて間がないと言っていたからである。

「え? それで問題にはならなかったのですか?」とたずねると、「このホテルに就職したときに、日本人の社長から『常にお客様の利益を最優先に考えて行動しなさい』と言われたのです」と教えてくれた。

想定外の出来事が起きたときは、この基本原則を思い出し、自分で考え、判断する。急ぎの場合、上司への確認は後回しにしても構わない。あなたに判断ミスがあっても、責めることはない。社長はこう伝えたそうだ。

フーンさんは、「お客様のケースは、明らかに急ぎで、上司に相談していたら、間に合わなくなる可能性がありました。それで独断で動いたのです」と話し、一段落した後に上司にメールで報告したと説明してくれた。

うれしそうな表情を浮かべ、「とても、ほめてもらえましたよ」と言う彼女を見ながら、ベトナム人のホテルスタッフが生き生きと働いている理由の1つが分かった気がした。

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ベトナムの日系ビジネスホテルには、このように露天風呂を備えているところが多い。

(初出:時事速報ベトナム版2021年05月28日/改稿:2021年09月27日)
  




返って来た500ドル

「500ドル、貸していただけないでしょうか」。友人のベトナム人女性トゥーさんからこう切り出され、近藤さんは一瞬言葉に詰まった。

近藤さんがダナンに出張したとき、たまたま飛行機で隣同士になったのがトゥーさんと知り合ったきっかけだ。年が20歳以上も離れている上、近藤さんには奥さんと子供がおり、トゥーさんにも婚約者がいる。恋愛感情が入り込む余地はないが、何となく気が合い、時折カフェでおしゃべりする関係が続いている。

そんなある日、「ちょっと頼みごとがある」と彼女に誘われ、カフェに出向いた。そこで出てきたのが、お金の相談だった。

トゥーさんは、「親友のお母さんが難病を患っています。手術すれば治る可能性が大きいそうですが、彼女にはそれだけのお金がなく、『お金を貸してくれないか』と私に頼みに来たのです」と説明した。

大学を卒業して間もないトゥーさんの給料は200ドル少々。ビンズオン省の親元を離れて、ホーチミン市で一人暮らしする彼女にとって生活するだけで精一杯だ。そこで思い浮かんだのが近藤さんへのお願いだったらしい。

近藤さんにとって、もちろん出せない金額ではない。しかし「親が病気」というのは、お金を借りるときによく使われる口実の一つ。

「返って来ない可能性が大きいだろうな」。そう思ったが、数日後、近藤さんは白い封筒に入れた500ドルをトゥーさんに手渡した。「何となく賭けてみる気になった」のだという。

その後、数カ月、トゥーさんから連絡はなかった。「やはりだまされたのかな」と近藤さんが思い始めたころ、彼女から電話が入った。

「友達のお母さんは無事に手術を受けられ、日常生活に戻ることができたのです」。そう告げる彼女の声は弾んでいた。

「私の友達は、近藤さんに会って直接お礼を言ってお金を返したいと言っています。あなたの連絡先を教えてもいいでしょうか」。彼女からこう言われ、連絡先を伝えたが、友達からは何の音沙汰もなかった。

さらに約3カ月がすぎたころ、トゥーさんから「近々、時間を取ってもらえませんか」と電話があった。友達から連絡がないことを話すべきか悩みながら、近藤さんは約束のカフェに出向いた。

「ごめんなさい」。約束の10分前にお店に着くとトゥーさんは既に来ていて、近藤さんの姿を見るなり、席から立ち上がって深々と頭を下げた。

「彼女がとっくにお金を返したと思っていのですが、先日会った時に『近藤さんにはまだ連絡していない』と言うのです。腹が立つと同時に、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまいました」。普段はおっとりした話し方のトゥーさんが早口になり、語気も強くなっていた。

近藤さんは、「500ドルと言えば大金だし、返す気があっても、実際には大変ではないのかな」と相手のことをおもんぱかった。

トゥーさんは「それでも、一言、お礼は言うべきです」と言いながら、封筒を差し出した。「もう彼女のことを信用できないので、私がお金を返すことにします。ベトナム・ドンですけれど、500ドル分入っています。受け取ってください」と。

これは15年ほど前の話だ。その後も近藤さんとトゥーさんの不思議な友情は続く。トゥーさんの結婚式には、近藤さんも一家で招かれ、今や家族ぐるみの付き合いになった。

近藤さんは受け取ったお金を使わずに置いてある。「彼女の2人の娘が成人したときに、お祝いを贈るためです。その時に、このお金の由来も2人には話そうと思っている」と明かしてくれた。

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 銀行の前に置かれた預金金利の看板。融資返済の利子も高いため、お金を借りるときは家族や友人を頼ることが多い。

(初出:時事速報ベトナム版2021年03月15日/改稿:2021年09月20日)
  




私の命日

「あなたの命日は2037年12月20日の日曜日だから」。

おごそかな表情で妻は私に告げた。結婚して間もない頃のことである。妻は私より9歳年下で、女性は男性より長生きすることが多い。「夫が死んだ後、自分は一人で何年くらい生きるのだろうか」と不安を感じ、占い師に相談したそうだ。この占いが当たれば、私は74歳でこの世を去る。

「忘れないように記録しておいて」と妻に促され、その日付をパソコンのカレンダーに登録した。以来約20年、折に触れて、自分の命日を見直している。妻も時折、「あなたが死んでから20年くらいは独り暮らしになるのだから、心構えをしておかないと」と話している。

ベトナムでは、法律で占いを禁止しているらしい。ただし、それは表向きの話だろう。実際には、占いやそれに類するものは社会で大きな存在感を持っている。中でも重要視されているのが風水だ。結婚式など重要な行事の日程を決めるとき、風水師に相談に行く人が多いという。

知り合いの会社で赤字決算が続いた際、ベトナム人の経営陣は緊急の取締役会を開き、対応を協議した。最初に決めたことは、「風水師を招く」だった。風水師の指示に従い、経理部の場所を変更し、会社の幹部全員が集まり祈りをささげた。

社員の日本人の中には、「経営の立て直しが風水頼みだなんて、この会社は危ないかもしれない」と、かえって不安を感じた人もいたようだ。

建築に関しても風水師の発言権は大きい。建築士としてベトナムで長く仕事するオーストラリア人の知人から興味深い話を聞いた。彼が手掛けた物件の一つに、ホーチミン市人民委員会庁舎と市民劇場に挟まれた超一等地に位置する商業施設・ユニオンスクエアがある。開業当時の名称はビンコムセンターA。

開業直後に会った時に、彼から「あのショッピングセンター、歩きにくいと思わないか?」と尋ねられた。「まるで迷路に入り込んだような気になることがある」と答えると、「それには理由があってね…」と、いきさつを説明してくれた。

建物は元々、ホテルとして設計されたという。市民劇場の下には地下鉄1号線の駅が設置される計画で、「地下鉄の駅から傘要らずで、チェックインできる交通の便の良さ」がホテルの売りの一つになるはずだった。建物の枠組みが完成し、内装工事に入った段階になって、風水師からオーナーに「ここにホテルを建設するのは風水的に良くない。ショッピングセンターにしなさい」という指示が入ったそうだ。

「ホテルとショッピングセンターでは動線が全く違う。でも、もう階段や内壁はできているので、大幅な変更はできない。無理矢理ショッピングセンターにしたので、ああいう状態になってしまった」と、彼は嘆いた。

鳴り物入りで開業したものの、閑散とした状態が続き、オーナーは再び、風水師に相談した。その際、地下鉄の話が出たところ、「どうして、それを言わなかったのだ。地下鉄が通るのだったら、風水的にあの場所はホテルに最適だ」という言葉が返ってきたという。

その後、ユニオンスクエアは一時閉鎖され、同じ建物内にマンダリン・オリエンタル・サイゴン・ホテルが開業すると発表されたのは、2018年5月のこと。開業は20年中の予定だったが、工事はまだ続いている。

知り合いの日本人建築家からも同じような話を聞いた。彼は肯定的に考えようとしている。
「風水はベトナムの伝統。これを『ただの迷信』と切り捨てるのではなく、共存することが大切だと思う」。

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亡くなってから3日3晩が弔問期間で、都合のいい時間に訪ね、御霊前で手を合わせて帰る。服装はカジュアルでも構わない。

(初出:時事速報ベトナム版2020年12月11日/改稿:2021年09月13日)
  




納骨堂で号泣する女性 

まさに「号泣」という言葉がぴったりだった。

教会の納骨堂には、壁一面に遺骨が入った小さな収納庫が並び、故人の遺影とともに生まれた日と亡くなった日が記されている。遺骨の収納庫の表面を手でなでながら、話かけたり、涙を流したりしている人を見掛けることは多い。

60代に見える女性が、その一つに頬を擦り寄せながら、辺りをはばかることなく、大声を上げて泣いていたのだ。とぎれとぎれに聞こえる彼女の言葉から、遺骨は何年か前に亡くなったご主人さんであることが分かった。

敬虔(けいけん)なカトリック信者だった義父も、その教会に遺骨が納められており、家族そろって定期的に訪れている。

くだんの女性はとても1人で歩けるような状態でなく、迎えに来たお子さんらしい人に抱えられ、納骨堂を後にした。ベトナム人女性は夫への愛情が深いという話をよく聞く。それを目の当たりにした気がした。

深い愛情にはマイナスの側面もある。日本人の夫の勤める会社に、ベトナム人妻が半狂乱の状態で、「夫が行方不明です! すぐに探してください!」と電話をかけてきた。夫の日本人同僚が話を聞いたところ、「彼の携帯電話に連絡しているが、もう3時間も出ない。普段なら2時間に1回くらいは電話をくれるのに」との話だった。

結論を言えば、夫は重要な会議に出ていて、その間、携帯電話を切っていただけだった。妻は「浮気をしているのではないか」と怒ったり、「交通事故に遭ったのではないか」と心配したりと、気が気でなかったそうだ。

こんな話もある。ベトナム人の妻を持つ日本人が集まって食事していた時に、結婚間もない男性が先輩らに、「先日、飲み会で帰りが遅くなったところ、妻が怒って家に入れてくれず、途方に暮れた」と相談した。

先輩からは、「そういうことは珍しくない。ホテルに泊まれるように、パスポートは常に持ち歩いている」との返事だった。身分証明書となるパスポートを提示しないと、ホテルに泊まれないからだ。

驚いた表情を浮かべる新婚男性に、その場にいた10人近い日本人男性が全員、カバンからパスポートを取り出して見せた。私もその1人だった。ベトナム人の妻を持つ日本人が集まると、この手の笑い話は尽きることがない。

言うまでもなく、ベトナムの女性が皆、情に深いわけではないが、日本人女性の平均と比べると、その差は歴然としているように感じる。30年余り前に日本で流行した「亭主元気で留守がいい」というコマーシャルをどう思うか。ベトナム人の女性に聞いて回ったことがあるが、一様に「信じられない」という反応だった。

「情は深いが、拘束も強い」という夫婦関係を選ぶか、「淡交」を選ぶかは、それぞれの価値観の問題で、どちらが良いかは一概に言えない。

それでも私は、納骨堂で号泣する女性を見ながら「ここまで深い愛情を抱いてくれるのなら、厳しく夫を管理したり、嫉妬深くなったりしても、辛抱する価値があるのではないか」と感じた。

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教会の納骨堂。都市部を中心に火葬が行われるが、地方では土葬もまだ多い。

(初出:時事速報ベトナム版2020年11月27日/改稿:2021年09月06日)
  




カフェの卒業生

「『子供が高校生になりました』って、卒業生が家族おそろいで報告に来てくれたよ」。
ミーさんはこう言って、目を細めた。

彼は学校の先生ではない。ソンチャンというレストランを営んでいる。「卒業生」というのは、かつて彼が経営したカフェをデートで利用し、その後、結婚したカップルのことだ。

あるベトナム人から、「経験した恋の数だけカフェがある」という話を聞いた。ホーチミン市の若者のデートは、安い屋台でさっと食事を済ませ、その後、カフェで長居するパターンが多いという。同じ店に毎回通い、別れてしまうとそのカフェには立ち寄らない。新しい恋人ができると、別のカフェを選んで利用する。

結婚すると、独身時代ほどには頻繁にカフェでデートしなくなる。自宅でゆっくり話ができるからだろう。しかし、誕生日とか結婚記念日など特別な日には、かつて行きつけだったカフェに足が向く。結婚が決まると報告しに行ったり、子どもが生まれると見せに行ったりする人もいる。

どのくらい一般的かは分からないが、20数年前、わたしが妻と交際していた時も、食事の後に行くカフェはいつも同じだった。ミーさん夫妻の営むソンチャンである。英語に訳すとムーンリバーというロマンチックな響きだ。

市内のビンタイン区のタンダと呼ばれるエリアにあった。サイゴン川の中洲で、中央を貫く一本道の両側に川の見えるレストラン、カフェが立ち並ぶ。若者の支持が高く、恋人ができたら一緒に行きたいカフェが何軒かあり、私達の通ったソンチャンはトゥイチェと並ぶ人気店の1つだった。

小さな森のような庭園カフェで、川に向いた2人掛けの椅子が並ぶ。席と席は少し離れていて、隣の会話が邪魔にならない。明るさを抑えた間接照明で、背後に流れる音楽も控えめ目。飲み物を持ってきてもらったときに料金を払う。その後は2時間いても、3時間いても、文句を言われないし、こちらが声を掛けない限り、店員は席の近くに寄ってこない。

妻とソンチャンに通っていた頃、オーナーのミーさん夫妻と話す機会はなく、二人と知り合ったのは偶然だった。

結婚してベトナムに住み始めてから、取材で訪れたレストランがソンチャンという店名。オーナーに「実はこのすぐ近くにあった同じ名前のカフェに通っていた」と話した。するとうれしそうに自分を指差しながら、「それ、私の店です」と。

夫妻はカフェを閉め、近くに故郷クイニョンの郷土料理を味わってもらうレストランを出したのだという。調理を担当する奥さんも話に加わり、「あなたは私達のカフェの卒業生だから家族の一員だ」と盛り上がった。

それから15年以上にわたり、家族ぐるみの付き合いが続いている。ソンチャンは人気のカフェだっただけに、家族連れでお店に来る卒業生が多くいるそうだ。こういうカフェ文化は、ベトナム人の生活に潤いを与える要素の1つであるに違いない。

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ソンチャンの跡地にできたカフェ。雰囲気は引き継いでいる。

(初出:時事速報ベトナム版2020年10月26日/改稿:2021年08月30日)
  




脱プラスチック製ストロー

カバンの中にいつも「マイストロー」を入れている。よく利用するカフェで購入したものだ。布製のバッグに、スムージーなどを飲む時に使う太いタイプ、細くて真っ直ぐなタイプ、緩やかに先の曲がったタイプが入り、それに掃除用ブラシを加えた4点セット。価格は合計7万9000ドン(約350円)だった。

ホーチミン市のカフェでプラスチック製から代替品のストローへの移行が始まったのは2年ほど前だったと思う。素材は金属、ガラス、竹、紙などさまざまだ。店内で代替ストローを出すだけでなく、商品として販売する店もある。環境意識だけでなく「これはもうかる」という商売っ気が働いたのかもしれない。

プラスチック製ストローへの注目が世界的に高まったのは2018年だっただろうか。米国のシアトル市が18年7月にストローを含むプラスチック製の食器(フォーク、スプーン)の使用を禁止したというニュースを覚えている。

ベトナムでもストローのニュースを見掛けるようになり、大手スーパーのサイゴンコープが19年4月に「環境保護のため5月からすべての店舗でプラスチック製ストローの販売を中止する」と発表した。

驚いたのはベトナムでの代替ストローへの移行の速さだ。レストラン、カフェが次々とプラスチック製ストローの使用をやめると決めた。

代替ストローを採用するカフェの中には、1杯3万ドン(約130円)ほどの手頃な価格でコーヒーを提供する店もある。そうしたカフェも自分の店のロゴを入れた竹や金属のストローを使っており、代替ストローに切り替えても経費はそれほど増えないのかもしれない。

ベトナム人、特に南部の人は「行動を起こすのも早いが、飽きるのも、諦めるのも早い」という傾向があると思うことがある。

開業したレストランの取材に行ったが、記事が出た時には閉店していた、ということを何度も経験した。オーナーは「1カ月ほど営業してみたが、全然、もうからないので閉めた」とニコニコしている。「即断即決もいいけど、出店前にもう少し考えたら?」と言いたくなるほどだ。しかし、この代替ストローではベトナム人の「腰の軽さ」が良い方に出ているのではないか。

もっともベトナムでも、一時の勢いはないように感じられる。当初は「この調子なら、カフェでプラスチック製ストローを見掛けなくなる日も近い」と思ったが、代替ストローを採用する店の増加は頭打ちのようだ。

代替ストローを販売するカフェですら、店内で飲料を提供する際、いまだにプラスチック製ストローだったりする。早くもストロー熱が冷めつつあるのかもしれず、私のようにマイストローを持ち歩く人は少数派だ。

日本はどうだろう。代替ストローを見掛ける機会は、ベトナムに比べ圧倒的に少ない。「取り組みが遅い日本はダメだ」などと安易に決め付ける気はないが、「ベトナムでできるのに、どうして日本では」と、疑問が湧いてくる。

最大の障害は技術力やコストではなく、日本人の慎重な気質ではないだろうか。だとすれば、少しもったいない。時には、ベトナム人と同じように軽やかに決断した方が良い場合もあるのではないだろうか。

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ベトナムのカフェで見掛けた代替ストロー。左上:金属製、右上:竹製、左下:ガラス製、右下:紙製。

(初出:時事速報ベトナム版2020年09月30日/改稿:2021年08月23日)
  




かつて日本は敵国だった

9月2日はベトナムの建国記念日(国慶節)に当たる。ホー・チ・ミンがハノイのバーディン広場で独立を宣言したのが1945年のこの日だ。ベトナムを植民地支配していたフランスからの独立と理解されているが、当時、ベトナムを実質支配していたのが「大日本帝国」であったことを忘れてはならないだろう。少し歴史を振り返りたい。

第2次世界大戦末期の45年3月9日、日本軍はインドシナ半島に駐留するフランス軍を攻撃・制圧し、半島を支配下に収める。しかし約5カ月後の8月15日、日本は無条件降伏。ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)はこれを好機と捉え、独立を目指してベトナム全土で蜂起した。ホーチミン市で通りの名前にもなっている8月革命(カクマンタンタム)だ。

ホー・チ・ミンは8月19日、ハノイのオペラハウス前の広場に集まった数千人の市民に、独立運動への参加を呼び掛けた。これを記念し、「8月革命記念日」が定められた。オペラハウスの正面には、集会が行われたことを記すプレートが埋め込まれている。ホー・チ・ミンが独立を宣言した9月2日は、日本がポツダム宣言に調印した日だった。事ほどさように、ベトナムの独立と日本の関連は深い。

親しくなった年配のベトナム人に、過去の両国関係を尋ねたことがある。特に気になったのは44年から45年にかけてベトナム北部で発生し、40万人から200万人とも言われる餓死者を出したとされる飢饉(ききん)だ。当時、進駐していた日本軍による食料調達が、死者数を増やした理由の一つだと言われる。

「もちろん知っているよ。ベトナムの歴史の教科書に出てくるからね」。
彼は笑顔でこう答えた。

「日本人の一人として、あなたの国に申し訳ないことをしたと感じている」と、私はわびたが、「日本軍が進駐したのも、大量の餓死者が出たのも歴史上の不幸な出来事の一つで、どこの国にも起こりうる」ときっぱり。

「日本に何ら悪い感情は持っていない。過去は過去だからね」と語り、勇猛果敢な日本軍の兵士は、敵ながらベトナム人から一目置かれる存在だったと話してくれた。

今でこそ日越関係は非常に良好だが、近現代史において、日本はベトナムにかなり冷淡な態度を取った。20世紀初頭に日本を頼ってきたファン・ボイ・チャウを冷遇したことに加え、フランス進駐時代の出来事、ベトナム戦争時には米軍が沖縄の基地をベースに出撃した。こういう背景にも関わらずベトナムが世界有数の親日国であり続けるのは、この国の人達の寛容さと未来志向によるところが大きいのではないかと感じる。

日本は76回目の終戦記念日、ベトナムは76年目の建国記念日を迎えようとしている。こうしたタイミングで、両国の歴史に少し思いをはせてみてはいかがだろうか。

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ハノイのオペラハウスにある8月19日の集会を記念するプレート

(初出:時事速報ベトナム版2020年09月03日/改稿:2021年08月16日)
  




投票側から見た総選挙

「あんなの茶番ですよ」。マン君は吐き捨てるように、こう言った。5月23日に行われたベトナムの総選挙のことである。5年に1回実施され、国会議員500人などを選出する。投票率は99.6%だったそうだ。

ベトナムの選挙が日本と異なる点は多々ある。日本では選挙前になると、候補者の名前を連呼する選挙カーが走り回り、各所で街頭演説が行われるが、ベトナムではこれに類するものを見たことがない。

そんな中、高い投票率を確保するため、さまざまな取り組みがなされている。大きな通りには、投票を呼び掛ける看板や垂れ幕がずらりと並ぶ。選挙が近づくと、携帯電話には投票を促すメッセージが送られてくる。今回、最初に受け取ったのは確か投票日の10日前で、5日前からは毎日届くようになった。

電話をかけようと番号を押すと、呼び出し音が鳴る前に、投票を呼び掛けるメッセージが聞こえてくる。ベトナム語が分からない外国人の中には「番号を間違えたのだろうか」と電話を切ってしまう人もいたようだ。飲食店を営む知人は「『デリバリーを頼もうと電話をしたのに通じない。コロナの影響で閉店したのか』とメールで連絡をしてくる人がいた。営業妨害ですよ」と苦笑していた。

「選挙当日は朝から電話がかかってくるのです。投票に行けとね」。こう教えてくれたアイン君は、5年ほど前から自宅がある坊(ベトナム語でphường。区の下にある行政単位)で役員をしている。日本でいえば町内会の役員みたいなものだ。そんな彼でも「選挙に興味はない」という。しかし「『投票しない人は非国民だ』と電話で責められるので投票した」そうだ。

フック君は「出来レースの選挙なんて、投票するのは時間の無駄」と、投票当日は朝から遊びに出た。夜になって自宅に戻ると待ち受けていたのは、彼の住む地区の選挙担当者。すぐに投票所に連れて行かれた。

フーンさん夫妻は投票に行かなかった。それが通ってしまったのは「近所の人が投票してくれたから」。代理投票は禁止されているが、現場では横行しているそうだ。「誰に入れたのかって?それは分からないなあ。投票してくれた人にお任せだから」と言う。

候補者の名前、顔写真、略歴は「立候補者名簿」を見れば分かる。しかしこれを読み込んで真剣に検討する人は少ないようだ。近所の人は、「名簿?ゴミ箱に直行だよ。誰が当選しても同じだから」と話していた。

冒頭のマン君に「どうして選挙は茶番なのか?」と尋ねてみた。
「総選挙前に新しい国家主席、首相が決まっているのですよ。選挙を通じて民意を反映させようとする意思があるとしたら、順序が逆でしょう。こんな茶番劇を続けているから、この国はダメなのです」とあきれ顔だった。

40代半ばになるマン君は、一軒家と高級マンションを所有し、自動車も複数台持っている。成功しているベトナム人ビジネスマンの1人であることは間違いない。マン君だけでなく、今回、話を聞いた知人は富裕層といっていい人たちばかりだ。にもかかわらず、選挙のあり方を含め現在の政治体制には批判的だった。

選挙結果が発表されたのは、投票日から2週間以上たった6月10日。投票当日から開票状況が刻一刻と発表され、翌日には結果が確定する日本とは大違いだ。マン君にいわく、「誰も結果に興味はない」のだという。

私の周囲には「政治には何も期待しない。自分の生活は自分で守る」というベトナム人が多い。選挙への冷めた姿勢にも、そんな思いが垣間見えた気がする。

【写真キャプション】
携帯電話に届いた投票を促すメッセージ

(初出:時事速報ベトナム版2021年06月28日/改稿:2021年08月09日)
  




ベトナム人妻を持つ日本人に学ぶ

「ベトナム人が何を考えているのか、よく分からない」

当地で暮らすほとんどの方は、こんなため息をつくような思いをしたことがあるのではないだろうか。ベトナムとの付き合いが25年を超え、ベトナム人の妻との結婚生活が20年を迎えた私でも、いまだに意表を突かれることがある。

ホーチミン市には、そういうときに頼りになる心強い仲間がいる。「ベトナム人の妻を讃える会」というベトナム人を配偶者に持つ日本人男性の集まりだ。3カ月に1回程度のペースで、気楽な夕食会を開いている。

2020年6月25日は発足10周年を記念する会合だった。当日は、在住期間と結婚生活が長い2人を特別講師として招いた。私も勉強させてもらうおうと参加した。

1人は、市内で製菓会社を経営する安田佳朗さん。ベトナムに来たのは1994年で、結婚したのは25年前。印象的だったのは、日本にいるお父さんの介護が必要になったときに、奥さんのアインさんが手厚く面倒を見てくれたという話だ。

安田さんとアインさんは共同経営者で、2人そろってベトナムを離れるわけにはいかず、3か月交代で日本に行くことにした。アインさんにとっては言葉も十分には通じない異国の地。しかも面倒を見るのは自分の親ではない。ところがその献身的な介護ぶりは地元で評判になるほどで、安田さんには「ベトナムの女性は素晴らしい。うちの息子の嫁にも誰か紹介してくれないか」という依頼が来たという。

アインさんと同じようにできる人は、ベトナム人でも多くはいないだろう。しかし「家族思い」という点は共通する。ベトナム人を理解する上で、「家族」が重要なキーワードだと改めて感じた。

もう1人のゲストは丹後博資さん。偶然にも安田さんと同じ菓子製造業を営んでいるという。91年にベトナムの地を踏み、結婚生活は26年になった。今年で80歳というが、立ち居振る舞いを見ていると、とてもそんなには見えない。

丹後さんは「気持ちを言葉にすることの大切さ」を語った。

「毎日、『愛しているよ』と言うのです。そうすれば奥さんはご機嫌になる。そして夫にも、それは良くしてくれます」と紹介してくれたが、これは日本人、特に男性には苦手なところだろう。ベトナム人は日本人に比べると、男女ともに言葉を掛けることにマメで、相手を褒めることに躊躇(ちゅうちょ)もない。

「言葉にすること」の大切さは、社員との関係でも同じと言える。私自身、軽い気持ちでベトナム人社員を褒めたら、見違えるように仕事を頑張ってくれて驚かされたことが何度もある。

丹後さんの話で、一同が深くうなずいたのが「ベトナム人は鏡みたいなもの」という言葉だ。不機嫌に接すれば不機嫌に返してくる、笑顔で接すれば笑顔が返ってくる。万国共通とも言えるが、ベトナム人にはこの傾向が強いと思う。

日本の接客業の人は、こちらが不機嫌でも笑顔で接してくれる。ベトナムでは愛想のない店員さんが少なくないが、笑顔で話し掛けると、仏頂面が一転、こぼれんばかりの微笑みに変わる。そんな経験をお持ちの人は多いだろう。

2人の話を聞いて「ベトナム人の奥さんとより良い夫婦関係を築くコツは、ベトナム人社員との人間関係づくりにも共通するものが多い」と感じた。ベトナム人の社員がやる気のなさそうな時には、自分は仕事を嫌々やっていないかどうか。ベトナム人の社員が機嫌の悪い時は、自分は仏頂面で接してないかどうか。わが身に立ち返ってみてはいかがだろうか。

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 10周年記念の会合には、会員のうち20人が参加した。奥さんへの配慮から、毎回夜9時すぎにはお開きとなる。

(初出:時事速報ベトナム版2020年07月28日/改稿:2021年08月02日)
  




日本にマスクを寄贈する青年実業家

2021年7月現在、コロナウイルス感染拡大に苦戦しているベトナム。しかし第1波が発生した2020年4月には、いち早く新型コロナウイルスを封じ込め、日本など諸外国にマスクを寄贈していたのは、ご記憶の方も多いだろう。

日本関連では、4月16日にベトナム政府が日本政府に医療用マスク5万枚を寄贈したのを皮切りに、5月にはベトナム政府からさらに14万枚、ベトナム公安省は日本の警察庁に1万枚、ベトナム国会議長は日本の衆参両院議長あてに合計2万枚、と言った具合だ。

日本へのマスクの寄贈は、実はベトナムの民間企業も行っている。ホーチミンで農産物の加工・販売会社を経営する青年実業家グエン・キエンさんもその1人。「ベトナムでもマスクが不足し、値段が上がったり、低品質ものが出回ったりした時期があった。自社の社員や提携先の農家にマスクを配ろうと思ったのがきっかけだった」と振り返る。

ビンズオン省の工場に空きスペースを見つけ、マスクを製造する機械を購入して設置した。思い付いてから生産開始までわずか1週間という早業だった。「マスクを作ったことはないが、食品加工で培った衛生管理のノウハウが役に立った。ベトナム政府の海外輸出基準を満たしたマスクを作ることができ、米国の認証も取得した」と語る。

4月には社員、取引先の農家ら関係者約2000人に12万5000枚のマスクを無料で配布した。次に浮かんだのが日本だった。

キエンさんは大学で日本語を学んだこともあり、日本に親近感を抱いている。「日本で働くベトナム人技能実習生らもマスクが入手できずに困っている」という話も耳に入ってきた。しかし、彼自身には実習生にツテがない。大学の先輩で人材送り出し機関で働くレ・ビン・フンさんに相談し、彼の会社の協力で5000枚を日本にいるベトナム人実習生に届けた。

キエンさんは、「日本ではまだコロナの感染者が出続けており、マスクの需要はあるだろう。さらに6万枚のマスクを用意した」と話す。

今度は地方自治体に「マスクは足りていますか。必要ならば、無償で寄贈したい」と持ち掛けた。根室市と兵庫県から「ありがたく受け入れたい」と回答が届き、1万枚ずつを出荷した。「コロナは長丁場になる。第二波、第三波が来る可能性もある。だから今後もマスクの生産は続ける。ベトナム国内では販売もしている」と現状を語る。

政府機関はともかく、どうして民間企業が無償でマスクの寄贈をするのか。しかも製造費だけでなく、日本への運送費まですべて自分の会社で負担である。キエンさんは「私の会社はコロナでのダメージが、他の業界に比べると小さかかったからできた」と笑うが、社員約150名の会社には財政的な負担も大きかったはずだ。

何か下心はないのだろうか。彼の会社を友人のフンさんと一緒に訪ねた際、不躾なのを承知で尋ねたが、「そんな風に勘ぐられるのが嫌で、取引のある企業にはあえて寄贈しなかった」という答えが返ってきた。

マスク寄贈の発表文も一切出していない。会社のウェブサイトには、マスク事業にすら一言も触れていない。キエンさんの活動を知ったのは、フンさんと食事をしたときにたまたま彼の話が出たからである。

「美談には裏話がつきものだ」と言われる。この話を「一種の売名行為」と受け取る方がいるかもしれない。ただ、売名目的でも、身銭を切って海外までマスクを贈るのはなかなかできることではない。そんなベトナム人がいることを、ぜひ心にとどめてもらいたい。

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カフェに置かれた無料のマスク。この店では利用者のために、2020年2月以降、4か月以上もマスクの提供を続けている。

(初出:時事速報ベトナム版2020年07月13日/改稿:2021年07月26日)
  




バイクはお腹が空いた
 
ベトナム語をベトナム語に「翻訳」してもらうことがある。

先日、バイクの洗車に行ったときもそうだった。近所のお店はオイルを交換すると無料で洗車してくれるので、2つをセットで頼む人が多い。しかし私のバイクはオイルを交換したばかりだった。

「オイル交換もするよね?」
お店の男性店員が、当然のような顔で聞いてきたので、私はこう伝えた。
「今日は洗車だけでお願いします」
「え?」

私の発音が悪いのか、彼には理解できなかったらしい。
「今日は洗車だけで、オイル交換は要らないから」
もう一度言ったのだが、再び聞き直されてしまった。

するとやり取りを聞いていた隣のクリーニング店の女性店員が、洗車店の男性をたしなめるような口調で、
「このおじさんは『洗車だけ、オイル交換はしない』って言っているのよ。あなた分かった?」
私のベトナム語をベトナム語に「翻訳」して伝えてくれた。

ベトナム語は発音が難しい。声調が6つあり、同じつづりでも声調が異なると、まったく違う意味になってしまう。外国人がベトナム語の習得を諦める理由の9割は「発音」だそうだ。私自身「クチのトンネルに行きました」と説明したときに、何度言っても「クチ」が通じなかったという苦い経験がある。

一方で「私のベトナム語の声調は無茶苦茶なのに、よく理解してくれたな」と感じることも少なくない。頭の中で声調を修正したり、前後の文脈から推測したりして、理解してくれているのだろう。特に外国人に慣れているベトナムの人たちは、声調の誤りに対する許容範囲が広いのではないか。

発音に限ったことではない。文法、単語が正しい表現でなくても、何とか理解しようと頑張ってくれる場合もある。

私自身が2度目にベトナムを訪問したときだったと思うが、バイクに乗っていてガソリンが切れそうになったことがあった。近くの給油所を知りたいが、ベトナム語で「給油所」をどう言うのかが分からない。

道端にいたバイクタクシーの運転手を捕まえ「Xe doi bung!」と訴えた。Xeは「車両」で、doi bungは「空腹」。「バイクは、お腹が空いた」と説明したのだ。運転手は一瞬、けげんそうな顔を浮かべたが、私が繰り返すと破顔一笑。「ウン、ウン」とうなずきながら、最寄りの給油所を教えてくれた。

こんな風に私が珍妙なベトナム語で話し掛けても、嘲笑せず、暖かく受け止めてくれるベトナムの人には、感謝しても感謝しきれない。

自分自身に立ち返ると、日本語のできるベトナム人と話しているとき、相手の日本語の間違いについ苛立ちを感じることがある。雰囲気は伝わるので、相手方は心理的に萎縮し、口が重たくなってしまうに違いない。

「通訳」してくれたクリーニング店の女性に、「ありがとう。私は18年もベトナムに住んでいるのに、ベトナム語が下手で……」とお礼を言った。「あら、そんなことないですよ。彼は察しが悪くて困っちゃいますよね」と、ほほ笑みながら励ましてくれた。

【写真キャプション】
手際よく15分ほどで洗車をしてくれ代金は3万ドンだった。

(初出:時事速報ベトナム版2020年6月23日/改稿:2020年12月28日)
  


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