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サイゴン路地裏物語 2019/07/29 庶民から庶民へのボランティア 庶民から庶民へのボランティア 私には中学2年生の娘がいる。子供の成長は早い。おもちゃや本はどんどんお役御免となってしまう。先日、娘が部屋の片付けをしたところ、ダンボール箱いっぱいの不用品が出てきた。さて、どうしよう。 私は、知人のベトナム人・ランさんに話をしてみた。 「私が知っている児童福祉施設に持って行ったら、とても喜んでもらえると思うわ」 とのこと。後日、彼女に寄贈品一式を託した。 彼女から「施設に届けてきました」というメールが届いたのは、約2週間後のことだ。私が贈ったおもちゃで遊び、絵本を読んでいる子供たちを撮影した写真が何枚か添付されていた。 子供の代表が書いたという礼状の画像も含まれていた。冒頭に掲載したのが、それである。 「おもちゃや本を送ってくださってありがとうございます。みんなで一緒に、本を読んだり、おもちゃで遊んだりしています」 という意味のことがベトナム語で書かれていた。 「ありがとう、サンタのトー(To)さん」と書いてあるのは、ランさんに品物を託す時に「ちょっと早いけど、サンタからの贈り物だと言って渡して」と頼んだからだろう。「トー」とは私のベトナム語のあだ名だ。 ランさんは車の販売店で働いている会社員。仕事は忙しく、平日は残業もあると聞いている。土曜日の午後と日曜日が休みだが、車の販促イベントがあるときは週末も出勤だ。「大学時代の同級生と部屋をシェアして住んでいる」というから、給料も決して高くはないのだろう。 彼女がボランティアをしているという話は聞いたことがなかったし、選んで連絡したわけではない。「何人かに声をかけたら、福祉施設と付き合いがある人が見つかるだろう」と思って、たまたま最初に声をかけたのがランさんだった。 一人目で求める人が見つかったのは、私にとっては意外ではない。以前から「ベトナムのボランティア活動は裾野が広い」と感じていたからだ。これについては、今までにいろんなところで記事にしている。 スラムの子供達に英語を教えている貧乏な大学生。毎朝、店の前の箱に無料のバゲットを用意している店主。買い物に行くたびに、砂糖やトイレットペーパーなどを余分に買ってきて、近所の貧困家庭におすそ分けする主婦。そういう例は、私が知っているだけでも枚挙にいとまがない。 共通しているのは、援助をしているのが、金持ちでも行政でもなく庶民であることだ。自分たち自身も貧しく生活は苦しい。しかしそういう人が、より貧しい人へ救いの手を差し伸べている。 私自身を振り返ると、ボランティアへの参加を誘われても「時間がない」「お金がない」、この2つを理由にして断ってしまうことが多い。しかし「時間がない、お金がない自分でもできる範囲から始めればいい」と考えると、できることはいっぱいある。今回、娘の不用品を寄贈したことで、自分も少しだけボランティアに参加できたような気がして嬉しかった。 児童福祉施設の代表の方は、「お金や品物を頂けるのは確かに助かりますが、親のいない子供たちにとっては、誰かが一緒に遊んでくれるだけで嬉しいものです。来てくださるだけで、立派なボランティア活動ですよ」と言っていたそうだ。機会を作って、娘と一緒にこの施設を訪問してみようと思っている。 (本稿初出:2019年7月29日) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/07/22 銀行ですら規則に緩いベトナム流 銀行ですら規則に緩いベトナム流 私が持っている複数のクレジットカードのうちの1枚を解約することにした。手続きは簡単だ。銀行のクレジットカードカウンターに行き、書類に必要事項を記入するだけ。これが受理されると、カードを作ったときに預けた保証金が戻ってくる。 私はクレジットカードを発行してくれたベトコムバンクを訪れた。 対応してくれたのはトゥインさんという若い女性の行員さんだ。私が外国人と分かると、すぐにベトナム語から英語に切り替え、終始笑顔で説明してくれた。手続きは5分もかからずに終了。 「本日から45日後以降に、このカウンターで保証金をお返ししますね。その時は、この引換証とパスポートをお持ちください」 彼女はそこに書かれた返金日を指で示しながら教えてくれた。 私は少し考えてしまった。受け取りに何日かかかることは知っていたが、1〜2週間程度かなと予想していたのである。実は近々、長期で出張に出る予定があり、出発前にお金を受け取れたら嬉しいなと思っていたのだ。ダメで元々と思いながら彼女に事情を説明し、「返金日を早めてもらえないでしょうか」と頼んでみた。 「どれくらいですか?」 「20日後に受け取れると助かるんですが」 「書類の受理日から45日後以降というのが規則ですから。1日か2日の前倒しならともかく、そんなに早いとなるとちょっと……」 と小首をかしげながらも、「上司に相談してきますね」と席を離れた。 数分後に笑顔で戻ってきた彼女が持っていた引換証には、元の日付が消されて、私の希望通りの日付が書かれていたのである。私はお礼を言って銀行を後にした。 一方、日本では対照的な経験をした。ある行政機関に書類を提出したときのことである。ベトナムでは公式の書類に記入をするときのインクの色は青が一般的だ。ついその癖が出て青いボールペンでサインをしてしまったのである。 窓口に提出すると係の人から「書類へのサインは黒と規則で決まっています。記入をやり直して、再提出をお願いします」と言われてしまった。仕方がない。自宅に戻ってやり直しである。 あくまでも私の個人的な印象ではあるが、ベトナムでは規則を曲げて対応してくれる確率が、日本よりも高いような気がする。そもそも日本であれば、無理を頼もうという気にならない。一方ベトナムではダメ元で頼んでみることが多く、そしてたいていは聞き入れてもらえる。 この一事をもって「杓子定規な日本はダメで、融通が効くベトナムは素晴らしい」と主張するつもりはない。日本が規則に厳密なのは、それなりの理由があるからだろうし、ベトナムは時に規則が緩すぎて困ることもあるからだ。 日越両方の良し悪しを経験している私としては、「日本がもう少し柔軟になり、ベトナムがもう少し厳格になれば、ちょうどいい按配なんだけどなあ」と感じてしまうのである。 *写真はホーチミンシティにあるベトコムバンクタワー。 (本稿初出:2019年7月22日) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/07/15 洪水時に見たベトナム庶民の強さ 洪水時に見たベトナム庶民の強さ 朝起きると我が家は「陸の孤島」になっていた。 ホーチミンシティは、現在、雨季の真っ只中。前夜もかなり激しい雨が降り続いた。そのため我が家周辺の道路がすべて冠水してしまったのである。 幸い水は深くない。バイクを出して、娘をスクールバス乗り場まで連れて行き、帰りに冠水した路地裏の様子を撮影した。帰宅してパソコンで写真を開いた私は、「う〜ん」とうなってしまった。写っている人が、ほとんど全員笑顔なのである。そして思った。「これがベトナム人の強さだな」と。 写真を見ながら、私は2010年10月10日の大洪水を思い出した。ハノイ遷都1000年祭の当日で、ベトナムが祝賀ムードに包まれていた日のことである。夕食をレストランで済ませ、店の前まで出て驚いた。道路がすっかり川になっていたのだ。水は深いところで私の腰くらいまである。もちろんバイクは動かないので押して歩く。当時5歳だった娘は妻が抱きかかえた。 前がかすむほどの雨は弱まる気配も見せない。水の流れは激しく、時々、足元がふらつき、バイクが倒れそうになる。私たちの周囲は、そうして濁流と戦いながら、バイクを押して歩く人たちでいっぱいだった。 しかしその場に悲壮感はなかった。見知らぬ人同士が冗談を言い合っているのだ。通りの両側の家は軒並み床上浸水で、住人は水を避けて食卓の上などに避難している。彼らと目が合うと笑いながらVサインを返してくれた。この状況でどうして、冗談が言えるのだろう。笑っていられるのだろう。私は驚いた。 そもそもホーチミンシティでは洪水は日常茶飯事で、市当局が「洪水マップ」というアプリを提供しているほどだ。中でも私が住んでいるところは、冠水が多発することで有名なエリアの1つ。以前は年に何度も床上浸水に見舞われた。 道路が川に変わると、子どもたちが出て来て「ベニスだ、ベニスだ」と言いながら、水遊びに興じる。大人たちは、濁流と化した路地を眺めながら、のんびりビールを飲んでいる。そういう中でも笑顔を絶やさない路地裏の庶民たちは、本当に強い。 物質的に恵まれていても不平・不満を言いながら暮らしていると不幸だ。「幸せは心の持ち方次第」ということを、私はベトナム人から教わった気がする。 (初出:読売新聞・国際版 2017年10月20日/改稿:2019年7月15日) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/07/08 ベトナムは日本に負けない「おもてなし」の国 ベトナムは日本に負けない「おもてなし」の国 1995年、世界一周旅行の途上で、私が初めてホーチミンを訪れたとき、人々の生活は、今とは比べものにならないほど貧しかった。 4日間の滞在中に接したほとんどすべてにおいて、日本はベトナムのはるかに上をいっていた。そんな中で「これは日本に負けていないな」と感じたのが「ベトナム流・おもてなしの精神」である。 一例をあげよう。「ベトナム人の生活が見たい」と思っていた私は、滞在中に知り合った大学生のN君に「君の家に連れて行って欲しい」と頼んだ。彼は快諾。私をバイクに乗せて、自宅に案内してくれた。 到着すると、突然、現れた外国人を、彼の一家は、親戚の子が帰ってきたように、自然に迎えてくれた。 「外は暑かったでしょう。シャワーを浴びなさい」 と言われたが、最初は「初めての家で風呂を使うなんて」と躊躇した。しかし「帰宅するとシャワーを浴びてスッキリするのがベトナム流なんですよ」とのこと。「郷に入っては郷に従え」で、私もシャワーを浴びることにした。案内された浴室は半屋外。お湯は出ず水シャワーだった。 浴室から戻ると、 「これから夕食だから準備を手伝ってくれるかしら」 と言われ、一緒に茶碗やお箸を並べた。決して豊かなご家庭ではなかったのだろう。食卓はなく、床に大皿料理を並べていく。それを取り囲むように車座になって、7〜8人の家族が座った。 何を食べたのかは覚えていないが、その美味しさは今でも鮮明に記憶に残っている。N君の家族は、気を使ってはくれるのだが、さりとて特別扱いするわけではない。N君以外とは、言葉が通じないにも関わらず、私は、自分の家にいるかのように寛いだ気分で、過ごすことができた。 このときの滞在中、私は、N君宅を含む3つのベトナム人家庭を訪問している。まったく見知らぬ人たちばかりだ。しかしどの家でも、私を家族の一員のように迎え入れてくれた。 どんな「おもてなし」を心地よく感じるかは人によって異なる。特別扱いされることを好む人もいるだろう。しかし私には、3つの家庭での「自然体のおもてなし」が心地よかった。 日本に帰国後、約4か月の世界一周旅行を振り返って、いちばん印象的だったのは、ピラミッドでもパルテノン神殿でもなく、ベトナム人の家庭で過ごした至福の時間だった。 私がベトナムの土を初めて踏んだのは1995年7月7日のこと。昨日でちょうど24年目になる。その後、ベトナムは驚くほど豊かになった。しかし人肌の温もりがある「おもてなしの流儀」は今も変わらない。 (初出:読売新聞・国際版 2018年7月13日/改稿:2019年7月8日) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/07/01 南北の溝を埋めるのは 南北の溝を埋めるのは 「父はハノイ出身、母はホーチミン出身なんです」 先日、知り合いになったホーチミン貿易大学に通う女子大学生・フィンさんからの最初のセリフがこれだった。 「ちょっと珍しい組み合わせですね」 私がそう答えると、 「そうなんです。だから自己紹介のときに言っておくんですよ」 と説明してくれた。 首都・ハノイを中心とする北部と、国内最大の都市・ホーチミンを擁する南部は、別の国と考えたほうがいいほど大きな違いがある。そのことは、私も以前から知識として知ってはいた。しかしベトナムで働き始めて体験した両者の溝の深さは、私の推測を遥かに超えるものだった。 北部の人は、南部にそこまで対抗意識を持っていないようだが、南部人の北部人に対する嫌悪は根強い。南部に住んでいる北部人も多数いるが、そこにも見えない壁が存在する。これを理解する際に鍵となるのが「54年組」「75年組」という2つの言葉だ。 54年組とは1954年、ジュネーブ協定でベトナムが南北に分割された際、共産政権を嫌って南へ移住してきた人たちのことである。75年組は、1975年、ベトナム戦争が終結した後、移住してきた人たちだ。54年組は、北部人ではあるが「反共産主義」という点で南部人と共感できるところがある。しかし北部人であり、かつ共産主義者である75年組は、南部人にとって「親の敵」のような存在だ。 冒頭に紹介したフィンさんのお父さんは、そんな75年組の1人である。フィンさん自身は、生まれも育ちも南部で、言葉も南部発音だから、回りの人は南部人だと信じて疑わない。南部での日常会話の中で、75年組への悪口で盛り上がることは珍しくない。そこで彼女が「実は私の父は北部人なんです」と言うと空気が凍りついたようになることもある。それを防ぐために、最初に父親の出自を明かしておくのだという。 北部人の親を持って南部で暮らすのは、やりにくいことが多いのではないか。その点を私が尋ねると、彼女はニッコリ笑って、こんな答を返して来た。 「南部と北部の両方を知っていることは、むしろ利点だと思っています」 明日7月2日は南北統一記念日である。ベトナム戦争終結1年後の1976年のこの日に、南北ベトナムが1つになりベトナム社会主義共和国が誕生した。 それから43年。私には南北の壁は少しずつ低くなっているように感じられる。北部人と南部人の結婚も徐々に増えているようだ。フィンさんのように南北両方の血を引く子どもたちが、両者の深い溝を少しずつ埋めて行ってくれるのではないだろうか。私はそんな期待をしている。 (初出:読売新聞・国際版 2018年1月19日/改稿:2019年7月1日) コメント(0)