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サイゴン路地裏物語 2019/03/25 子育てに優しい社会 子育てに優しい社会 ホーチミン市の中央郵便局に行ったときのことだ。私が自分の順番を待っていると、カウンターの中で作業をしていた若い女性局員の顔が、一気に明るくなった。誰かから電話が入ったらしい。 彼女は、自分の前にスマートフォンを立てかけて、 「もしもし。お母さんのことが恋しくなったの?」 と話し始めた。電話の相手はお子さんのようだ。 相手が見えるモードで通話をしているのだろう、「ほら見える? お母さんは、仕事中なのよ。おばあちゃんの言うことをきいて良い子にしているのよ」などと話しかけている。 「この子、モデルができそうだな」と思ったほどの華のある容姿の彼女が、相好を崩して話をしている様子は、手垢の付いた表現だが、まさに「大輪の花が咲いたよう」という言葉がピッタリだ。優しさあふれる声からも、子どもへの愛情の深さが伝わって来る。 電話をしていたのは1分少々だっただろうか。通話が終わると、彼女はこぼれんばかりの笑顔で、次のお客さんに対応していた。 仕事中の私用電話は、もちろん良くない。しかし「家に残してきた子どもと少し会話するだけで、こんなに幸せそうな笑顔になれるのなら、それもいいのかな」と感じてしまうほど、微笑ましい情景だった。 私が感心したのは、彼女の同僚たちの対応だ。彼女の前に立ったお客さんには、両隣の女性スタッフが「こちらへどうぞ」と手招きをしている。彼女自身、電話をしている間も、手を止めずに作業を続けていたが、同僚も彼女が電話を続けられるように協力していたのだ。 ベトナムでは、子育て中のお母さんへの視線が温かい。あるコンビニでは、まだ小さいお子さんがいる女性店員が勤務する際、レジの隣にベビーベッドを置いていた。 レストランにベビーカーを押して入ってきたお客さんに対し、店員が「食事中は私たちがお子さんの面倒を見ていますから、ゆっくり食事をお楽しみください」と言っている光景を見たこともある。 我が家では子育ては私の担当で、取材や打ち合わせに、娘を連れて行ったことは数え切れない。それでも問題はなく、私が仕事をしている間は、誰かが、喜んで面倒をみてくれる。 日本に比べると、ベトナムは子育てをしやすい雰囲気だなあと感じることは多い。出生率をあげるために、いろんな制度を作るのはいいことだし大切だとは思う。しかし「社会全体が子育てを応援する」雰囲気が、いちばん重要なのではないだろうか。 (初出:読売新聞・国際版 2018年3月16日/改稿:2019年3月25日) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/03/18 ベトナム正月の美しい習慣 ベトナム正月の美しい習慣 新年を旧暦で祝うベトナムでは、2019年は2月5日が元日だった。ベトナム正月のことを「テトTet」という。テトに関する数々の習慣の中で、私が好きなのはお祝いの言葉を交わし合う「チュックテト」である。日本の年賀の挨拶とは少し違う。 例えば我が家では元旦、妻と私は義母の前に立ち、「お母さんが今年一年、健康と幸福に恵まれ、万事が思い通りになりますように」などとお祝いの言葉を述べる。そのときは腕組みをするか、もしくは体の前で手を組む。これは目上の人に敬意を払うときの姿勢なのだ。我々の挨拶が終わると、今度は義母の番で「いつまでも夫婦仲良くね」など返礼をする。 私の娘は、一家でいちばん年長の祖母に「チュックテト」をしてお年玉をもらい、次に両親である我々に同じことを繰り返す。これをせずにお年玉をもらおうとする横着は許されない。 新年2日目からは、年賀の挨拶回りが始まる。我が家にも親戚が次々とやって来て、挨拶のやり取りが繰り返される。幼稚園くらいの小さな子供でも、「チュックテトしなさい」と言われると、背筋をピンと伸ばし、腕組みをして我々の前に立ち、しっかりと挨拶をするのには感心する。 挨拶の中身に決まりはなく、相手に合わせて内容を変えるほうが、より喜んでもらえる。若い夫婦が相手なら「かわいい赤ちゃんに恵まれますように」に、年配の方が相手なら「100歳までもお元気でお過ごしください」など、といった具合だ。 私は、年が明けて初めて会う人には、大して親しくない人でも、年賀の挨拶をするようにしている。例えば、時々、立ち寄る屋台のおばさんや、カフェのスタッフなどだ。「チュック・ムン・ナン・モイ」(明けましておめでとうございます)に続いて、「おばさんが元気で、お客さんがたくさん来ますように」など、年賀の挨拶をすると、驚くほど喜んでくれる。 思い返すと、私が子供の頃は、我が家でも似たことをしていた。元日の朝には、和室の床の間を背にして和服を着た両親が座り、それに向き合って子供3人が正座する。そこで子供が年賀の挨拶すると、両親が返礼をしながら、お年玉をくれた。今、日本でこういう情景を見ることは減っているだろう。 ベトナムでも、年賀の挨拶は簡略化されていくのかもしれない。しかし、私はこの美しい習慣を、ぜひ残して欲しいと思うし、自分自身、毎年、続けたいと思っている。 (初出:読売新聞・国際版 2018年2月16日/改稿:2019年3月18日) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/03/11 少子高齢化は三世代同居で乗り越える 少子高齢化は三世代同居で乗り越える ヴィンさん、カンさんの一家は、ご夫婦に加え、奥さんのお母さん、2人のお子さんという合計5人の三世代同居である。共稼ぎだから、学校から帰って来た子どもたちの世話は、おばあちゃんの仕事だ。ご夫婦ともに帰宅が遅いので、夕食の用意もおばあちゃんに頼んでいる。三世代一緒の食事の場にお邪魔して、撮影させてもらった。 共稼ぎが一般的なベトナムでは、お手伝いさんを雇って、家事や子守をしてもらう人が多い。しかし最近はお手伝いさんも求人難で、いい人を見つけてもなかなか長続きしない。何より身内のほうが安心だ。 おばあちゃんの側の利点も大きい。まず子どもや孫が同居してくれると心強い。家事や孫たちの世話をすることで、生活に張り合いもできる。 我が家も共稼ぎなので、同居している義母にはかなり助けてもらっている。そもそも「義母が同居してくれる」という前提がなかったら、子どもを持つこと自体に、ためらいを感じただろう。 義母は75歳。まだまだ元気だが、私たち夫婦が同居を始めた15年前に比べると衰えは隠せない。5年くらい前からはパーキンソン病が出てきた。ここ数年は物忘れが激しい。料理を電子レンジで温めたはいいが、それを忘れて、別の料理を作り始めるというようなことは日常茶飯事だ。 12歳になる私の娘は、自分の祖母のそんな状態を自然に受け入れている。私にとって、これは三世代同居生活の大きな利点の1つだ。「どんなに元気だった人も、歳をとると衰えていく」という当たり前だが冷酷な現実を、娘は学ぶだろう。そして街で困っているお年寄りを見かけたら、自分自身の祖母のことを思い出しながら、手を差し伸べる習慣が身につくのではないかと期待している。 我々としても、同じ家の中にいると、義母が病気になったときなどの対応がしやすい。 三世代同居に不便を感じることもある。みんなが何かを少しずつ我慢することが求められるからだ。しかしデメリットよりも、得られるメリットのほうが遥かに大きいと、私は実感している。 ベトナムでも核家族化が進んでいるが、日本に比べて、まだ三世代同居が多いだろう。そしてこれが、ベトナム社会を支えている柱の1つのような気さえするのだ。 日本も「三世代同居」というライフスタイルを、もう一度、取り入れてはどうだろう。そうすることで、老人介護や少子化の問題が改善されるというのは、あまりに楽観的過ぎる考えだろうか。 (初出:読売新聞・国際版 2017年12月22日/改稿:2019年3月11日。年齢は初出当時のママ) コメント(0)
サイゴン路地裏物語 2019/03/04 1杯のフォーにかける熱意 1杯のフォーにかける熱意 ホーチミンでベトナム人とフォー(ベトナム風うどん)を食べに行くと、注文にとても時間がかかることがある。例えば友人のドゥックさんの場合はこうだ。 フォーは上に載せる肉を何にするかで10種類ほどに細分化される。代表的なものは、生の牛肉を載せる「ボータイ」と、チャーシュー状の牛肉のスライスを載せる「ボーチン」。ドゥックさんはこの両方を入れる。メニューにはないが「ボータイとボーチンで」と頼むと店は対応してくれる。肉の量が倍になるのではなく半々なので料金は同じだ。 付け合せのモヤシは、生ではなく必ず湯通ししてもらう。さらに生卵をつける。これも単なる卵ではなくて、牛の血を使ったスープの中に黄身が浮いているものがお気に入りだ。これは別の小鉢に入って出て来る。 そしてスープ。彼は必ず「脂抜きで」と頼む。健康上の理由だそうだ。運ばれてきたフォーのスープの表面に脂が浮いていると大変だ。「脂抜きでと頼んだじゃないか。出し直してくれ」と強い語気で店員に注文をつける。 普段は温厚そのもののドゥックさんだが、注文通りのフォーが出てこないと「店長を呼んで来てくれ」と怒鳴り出すことすらあるほどだ。付き合っていられない私は、「お先に」と断って、さっさと食べ始めてしまう。 私が感心するのは、お店の側が、これらの注文に対し、嫌な顔ひとつせずに対応することだ。おそらく慣れているのだろう。実際、こんな風に、お店側に細かい注文をするベトナム人は、ドゥックさんだけはない。私の周囲のベトナム人では、注文をつけないほうがむしろ少数派だ。ドゥックさん宅の近くにある行きつけの店だと、何も言わなくても、彼仕様のフォーが出てくるという。 南部のフォーは、運ばれて来たあとも長い。チャインと呼ばれるライムのような果物を絞り、自分の好みの香草を選んで入れる。さらに赤いチリダレ、茶色いミソダレのどちらか、もしくは両方を、好みに合わせて入れる。そうして自分流の味に仕上げてから、ようやくハシをつけるのだ。 こういうこだわりを見ていると「ベトナム人は食べることに命をかけているな」とさえ感じる。 お店の人に細かく注文をつけ、自分の好み通りのフォーが出てくると、ドゥックさんは本当に嬉しそうな顔になる。もう50に手が届く歳なのに、まるで子どものようだ。その無邪気な笑顔を見るたびに「食べ物へのこだわりは、ベトナム人の幸せの源の1つかもしれない」と感じる。 (初出:読売新聞・国際版 2017年11月17日/改稿:2019年3月4日) コメント(0)