サイゴン路地裏物語
「禁止」が多い日本社会

「禁止」が多い日本社会
11月20日はベトナムでは「教師の日」だった。私の娘はベトナム生まれ・ベトナム育ちだが、これを経験したことがない。彼女が通っている日本人学校では教師の日を祝わないからだ。小学校1年生のときには、11月に入ると学校側から「教師の日のお祝いはご遠慮ください」という通知が保護者に届けられた。彼女は幼稚園も日系で、日越家庭の子供が半分程度いたが、そこでも同様だった。
ベトナムでは、教師の日に乗じて保護者に対し金品を露骨に要求する教師がいたり、また逆に親が教師にこっそりと現金を贈って我が子の特別扱いを頼む、などの事例があるそうだ。日系の幼稚園や日本人学校が贈り物を禁止するのは、そういう不正を予防するためなのだろう。
教師の日の贈り物について考えていて、日本に一時帰国したときの出来事を思い出した。
自宅の近所に父母がお世話になっている小さな診療所があり、そこの若い青年医師とは私も知り合いだ。定期診断に行く両親と共に来院した際、私はお土産にベトナム産の板チョコを1枚持っていった。軽い気持ちだったのだが、医師は「こういうものは、ちょっと……」と、受け取るのをためらうのだ。
さらに、
「中身は本当にチョコレートだけですよね。中にお札とか入っていたら受け取れませんから」
と確認を求めてきた。確かに板チョコは、お札と同じくらいのサイズである。私は、
「先生、もちろん、中にはびっしりと札束が入っていますから」
と冗談で返すと、先生も笑顔になり「まあ、板チョコ1枚くらいなら大丈夫でしょう」と受け取ってくださった。
患者からの不透明な金品の受け取りには注意をしているのだろう。とは言え、スーパーで買ったチョコレート一枚を渡すのに、気を遣わなければならないのは、「ちょっと息苦しいなあ」と感じてしまった。
不正や不公平を未然に防止するのは日本の良いところの1つだと思うのだが、一方で「一部の不正を防ぐために、全面的に禁止するというのは、果たして正しいのだろうか」という疑問も感じる。
教師の日の例にしても、教師の日という習慣そのものが悪いのではなく、問題なのはそれを悪用する一部の教師や親である。それを取り締まるのが難しいのはよく分かるが、だからと言って教師の日を祝うことそのものを禁止するのは、残念な気がしてしまう。
同様の例は、日本社会のいろんな場面で見ることができる。例えばあるカフェでは、店内でのパソコンの利用を禁止していた。長時間居座る客がいるからだという。ある児童公園では犬の散歩を禁じている。フンを放置する人がいるからだそうだ。確かにこんな風に全面禁止にしてしまえば、一つ一つの事例について判断する手間が省けるから手っ取り早いが、それでいいのだろうか。
私の周囲にいる海外生活が長い人からは「日本社会は息苦しい」という声を聞くことが多い。それはこのように、いろんな場面で「禁止」をたくさん作ってしまったことが、原因の1つになっているのではないだろうか。
写真:教師の日に送られた花。
(本稿初出:2019年12月02日)
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